アエタス・アウレア

理想とはいわば想像の果て、到達であり、その原始だ。

敵を亡し人をなづけ、諸事沙汰の途轍を太平と呼ぶのは人だが、
原始とはすなわち想像の果てであり、それはまた、創造のための想像であったろう。

連綿と続いてきたそれと、今から続くそれとが、
なぜに、いつからこうも名前が違ってしまったのか。

それでも、というべき何かを残していられることとよく似た、
あってほしいという願いこそは、本当は幸せに他ならない。

たとえるなら物語とは過去にしか存在しないものだが、
それは誰の、というよりもなお、何の過ぎ去りであるのか。

途を辿れば形作るそれは、過去になればなるほど遺産となるが、
死んだのはなんだったろうか、と考えることは、ものは、存外ない。

過ぎ去ったものを黄金を呼ぶ多くの中で、
たとえばわたしは、なにに名前をつけ、どう呼ぶのだろうか。

さあゆこう、我々の理想郷へ。
などと言えば、たいていの格好はつくのだが、
そういうものに、私はなりたくない。

つくるではなく、なるのがよい。
それがもしも、何であっても。
そしてそれまたいつか、どこかの地平の虹となるのだ。

ユグドラシル

胡蝶の夢を誰も知らないが、知る必要なぞどこにもない。

はじめから、何もない。
無限のうちにこそ有限があるように。
空虚にこそ充足を見出すように。

韜晦した何かを衒学的に彩る必要などない。
この一文が全てを物語っている。

世界を形作るのが物語り、なのではない。
物語るのが、その世界なのだ。

ついぞ、ここまできたのなら難しく考えることはない。
それはそもそも、最初からそういうものだ。
ただ、在ればいい。語るのは、必要とする何かだ。

ウトナピシュティム

ことが終わってから、という意味でなく、
すべては過ぎ去ってから気付くものだし、沸き立ってから揺れるものだ。

気付くことを知っていれば、揺れることをわかっていれば、
それらはいつでもまた、違う何かに振れていったろうが、そうはいかない。

そして多くは、残念ながら、などという属性を与えられるのだが、果たしてそうだろうか。

得て、失い、存在し、消滅する。
流れてゆくのは、一切の常だが、流してしまうのは常在ではない。

掴みえることをせず、捕らわれた箱の中でこそたとえば水は溢れゆき、
いずれは波となり、自身さえも飲み込んで、流れゆくのだろう。

そして、6日6晩ののち、大洪水は明け、ウトナピシュティムは不死となった。
不死とはつまり、ある意味では生きていないことだ。

それを幸福と呼ぶのか、不幸と呼ぶのかは、やはり私たちの物語にほかならず、
しかしながら、それもやはり私たちの物語にほかならない。

沸き立つ前に揺れるものを掴めるとしたら、どうだろうか。
普通はきっと、最初喜び、のちに恐怖するだろう。

ことが終わってから、という意味でなく、
すべては過ぎ去ってから気付くものだし、沸き立ってから揺れるもの、だからよいのだ。
本当は。