聖剣

たとえば人が描くものだけでもいい、願いの種類は一体どれほどのものだろう。
そこかしこに転がる当たり前はもちろん、反対側にも必ず在るのが、願いというやつだ。
当たり前に望みはしなくとも、望まないようにしているであろうそれら、も。
実は、と言わず、いつでもそこかしこに潜んでいる。

隠したいそれと同じように、息を潜めて、こちらを見ている。
それを隠しきる材料こそが正しく、清らか、だという何かに他ならず。
また、手にした人々は我が物顔でそれを奮い、自己証明を求め続けるのだ。

争いは、善悪では起こらない。結果が呼び出すものは、全てが欺瞞だ。
正しさと正しさとが衝突、に見せかけながら手を組み、じっくりと生み出す魔物だ。
魔物を打ち倒す象徴、魔を上回る何かが聖なる力、となる。

だがしかし、聖なる力、と一口に言えども、それも結果でしかなく。
敗れ去り、消えてゆくものが魔だと言うのは、いつでも生き残るものだけだ。
生き残れば聖となり、枯れ果てれば魔となる、そのどちらもが、何かの願いだったろう。

愛はといえば、本当はどちらにもある。
結局は選びゆくものでしか、その何もかもは測れない。
生み落とし、感じれば、手に取り、選び、捨てろ、そして愛せよ。

わかるか、人間どもよ。
わかるだろう、人間ならば。

その形代は時に剣となり、後世、誰かや何かの都合で、そう、と、呼ばれる。
ただそれだけのことだ。