死と再生

目を醒ますことも、醒まさせることも、等しく公平で幸せなことではない。
それでも、と願うのはエゴでしかないが、それもまた不平等な天秤にはお似合いなのだ。

死には再生がつきもの、だといつの頃からか集合的無意識に生まれ出たそれは。
持ち合うでなくとも、不思議と、そして強烈に人々に寄り添っている。

たとえばきっと、ただ友達が欲しかったのだろう。
あるいは、ただ生きたかったのだろう。

それでよいと思ってはみるものの、なかなかそうならない、のだとしたなら。
ひとつの死が、また新たななにかの始まりとなる、のであればどれほどよいだろう。

死んだものを裁く神がいるのならば、それは人がそう在りたいと願ったのだ。
知ってか知らずか、それでも、という願いの中でしか残りえてくるものはない。

のだが、しかしながら、それすらも無関係に。
そしてだからこそ密接に。
自覚があろうとなかろうと、その誰もが、あるいは何もかもが、その願いの中で生きている。
そして死ぬのだ。再生は、生きているものだけのためにしかないものだ。

本当は、死、と再生、ではないのだろう。
なんと素晴らしいことではないか。

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