ウトナピシュティム

ことが終わってから、という意味でなく、
すべては過ぎ去ってから気付くものだし、沸き立ってから揺れるものだ。

気付くことを知っていれば、揺れることをわかっていれば、
それらはいつでもまた、違う何かに振れていったろうが、そうはいかない。

そして多くは、残念ながら、などという属性を与えられるのだが、果たしてそうだろうか。

得て、失い、存在し、消滅する。
流れてゆくのは、一切の常だが、流してしまうのは常在ではない。

掴みえることをせず、捕らわれた箱の中でこそたとえば水は溢れゆき、
いずれは波となり、自身さえも飲み込んで、流れゆくのだろう。

そして、6日6晩ののち、大洪水は明け、ウトナピシュティムは不死となった。
不死とはつまり、ある意味では生きていないことだ。

それを幸福と呼ぶのか、不幸と呼ぶのかは、やはり私たちの物語にほかならず、
しかしながら、それもやはり私たちの物語にほかならない。

沸き立つ前に揺れるものを掴めるとしたら、どうだろうか。
普通はきっと、最初喜び、のちに恐怖するだろう。

ことが終わってから、という意味でなく、
すべては過ぎ去ってから気付くものだし、沸き立ってから揺れるもの、だからよいのだ。
本当は。

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