死と再生

目を醒ますことも、醒まさせることも、等しく公平で幸せなことではない。
それでも、と願うのはエゴでしかないが、それもまた不平等な天秤にはお似合いなのだ。

死には再生がつきもの、だといつの頃からか集合的無意識に生まれ出たそれは。
持ち合うでなくとも、不思議と、そして強烈に人々に寄り添っている。

たとえばきっと、ただ友達が欲しかったのだろう。
あるいは、ただ生きたかったのだろう。

それでよいと思ってはみるものの、なかなかそうならない、のだとしたなら。
ひとつの死が、また新たななにかの始まりとなる、のであればどれほどよいだろう。

死んだものを裁く神がいるのならば、それは人がそう在りたいと願ったのだ。
知ってか知らずか、それでも、という願いの中でしか残りえてくるものはない。

のだが、しかしながら、それすらも無関係に。
そしてだからこそ密接に。
自覚があろうとなかろうと、その誰もが、あるいは何もかもが、その願いの中で生きている。
そして死ぬのだ。再生は、生きているものだけのためにしかないものだ。

本当は、死、と再生、ではないのだろう。
なんと素晴らしいことではないか。

ハイヌウェレ

言葉も文字も、人間たちのものであるのだから。
瑣末なことも、些細なことも、いずれにしても、淘汰されてゆく。

出したものの行方など、知ることも、知る必要もないのだ。
人間たちがそれを財宝というのだから、それは財宝なのだろう。
またそれをして時に応じ、人々は声なく、排泄とも呼ばわる。

埋められ、植えられたものがなんたるかの意味など、瑣末なことだ。
そこから血となり肉となるものがなんだとしても、理由など些細なものだ。

意味など、ない、ことでさえも、その意味を成す、ことを求めていては。

「いくらほってみてもまったくもって、なんのことだかいっさいわからない」

人類の財宝たるひとつ、辞書、をひけば。
芸術とは、表現者あるいは表現物と、鑑賞者が相互に作用し合うこと。
そこから精神的、感覚的な変動を得ようとする活動。
とあり、また、芸、の文字を紐解けば、本来は、植える、ことであるという。

なんだ、人間たちも、元来、知っていたのではないか。
意図せずとも、自覚せずとも、いっさいが植わっていたのではないか。

そういうものに、なりたかった、わけではないのだろう。
植え続けられ、食べ続けられる神々のすべてに。
その一切を相互だと呼ぶのであれば、時には哀れみを施すべきではなかったのか。

枝を折り、祈っては食べる。
出したものの行方など、知ることも、知る必要もないのだ。

竜殺し

それを考えてしまうことはある意味では禁忌なほどに。
古今東西描かれる強大な存在、の出処はいつでも不明瞭だ。

挑む姿、その勇姿のためにあるもの、と言ってしまっても言い過ぎではない。
まるで悪魔のように。まるで地獄のように。

結果論でしかない絶対善の為に、存在することにされる絶対悪は溢れ。
そのひとつが竜と呼ばれることもあるのだと、歴史は教えてくれる。

まったく笑えない、醜悪な話だが、信じさえすれば存在するのだ。
畏怖でも従属でも構わないが、そこにあるものは擬似的な臣従に他ならない。
その臣従を、人は時に神と呼び、悪魔と呼び、時に奇跡と呼び、そして竜と呼ぶ。

それを、殺す、のだ。
もはや並々ならぬ、どころの創造力ではない。想像だけでは、ありえないのだ。

真実がどうなど末端に過ぎず、本質的には、それはすでに存在する。
そしてここにおいて、存在することは、存在させることと変わらない。
残念なことに、あるいは喜ばしいことに。
いくら突き詰めても、そこに本来の答えはすでにないと、歴史は教えてくれる。

初めから形がないことを知っている誰かが、形をとる。
それは時に武器となり、広義的にには手段と言い換えても、差し支えはない。

勝つためでも、生きるためでも構わないが、それはつまりは手段なのだ。
数限りない手段の中で、輝かしさを誇るものだけ、というわけではない。
禍々しさや呪いにも似た力をも、等価交換のように引き連れてこそ、殺すのだ。


誰もそこまでいけやしないことを夢見ながら、見つけられることを待っている。
竜殺しとは、そういうものの総称なのだと、古今東西の歴史が教えている。

数限りない結果論を引き連れて、いつか名前がつく日を待っている。
竜を殺す日をじっと待っているのだ、あの剣のように。